「そのゼンマイでねじ切って」
ポタポタと俺の首筋に銀様の涙が落ちて、弾ける。
俺が、銀様を?
「出来ないよ……無理だ!嫌だよ!!」
俺の叫びはただの子供の叫びと同じだった。
「私は私のままで壊れたいの。まだ少しだけ、ほんの少しだけでも記憶が残っている間に」
…記憶も?と、俺はきっと銀様に見せられないような顔で言っていただろう。
俺の声が余程震えていたのか、銀様がそっと俺の頭を撫でながら言う。
「そう、ゼンマイだけじゃなくて記憶も。歌ももう思い出せないの」
きっと、銀様の言う歌っていうのは昔に話してくれた少女が歌っていた歌なんだなと思った。
その歌をもちろん俺は聞いたことは無いが、そのことを話す銀様の顔がすごく輝いていたんだっけ。
「たとえゼンマイを直してもきっとダメだわ。だからせめて貴方に」
右手に握り締めたゼンマイをゆっくりと銀様にいれる。
俺は震える手でゆっくりと巻き始めた。
両目をぎゅっと閉じると涙がバカみたいに溢れて流れる。
いつもならゼンマイを外す堅さになった。
「いいの、お願い」そう銀様は短く言って、よりギュッと強く俺を抱きしめた。
俺はゼンマイを強く握り締め――
鈍く硬質な音を立ててゼンマイが床に落ちる。
その音の後、俺は遂に喉の奥から出る嗚咽を抑えることが出来なくなった。
完全に銀様を破壊してしまった。
もうゼンマイを巻くことが出来なくなった。
「フフ…酷い顔ぉ」
そっと銀様が少しだけ離れて俺の顔を覗き込んだ。
銀様が悪いんだよ。そう言おうとしても口から出るのはしゃっくりのような俺の情け無い声だった。
そう言う銀様の方も涙を零していた。
「貴方にこんな事させちゃってごめんなさぁい」
銀様は卑怯だ。ごめんなさいで済むものか。そう俺に言わせる間もなくキスをしてくる。
ほんの一瞬だった。
「あ……」相変わらず俺は間抜けな声だった。
「あら、私みたいな人形じゃダメだったかしら…」
そう言って再び抱きついてきた。
「ねぇ……もうちょっとだけ、このままでいてちょうだい」
うん。
いいよ。
「意外に楽しかったわぁ、貴方と居るの」
俺もだよ。すごく楽しかった。
…楽しいとかそんな言葉じゃ表せられないくらい。
それっきりだった。銀様も俺も何も言わないで、ただ黙っていた。
時間がすごく永く感じられるほどだった。
いつの間にか俺は静かに涙を流すほどにまで落ち着いていた。
「あとどれくらいかしら」
「……数分かな。本当なら銀様に頑張ってもらって何時間でも、何日でも居て欲しいね」
「おばかさぁん」
「あ…」
小さく銀様が呟き、どこか遠くを見るような目で何かを言っている。
かすかに俺の耳に入ってくる。
これは……歌?
歌だった。
どこか物悲しげな、それでいて綺麗な歌だ。
一瞬にして銀様の背中の羽が大きく、羽ばたくように広がる。
舞うのは漆黒の羽。
俺は驚きしりもちをついたまま、見て聞いていた。
まるでそれは黒い天使が唄う悲しい歌。
泣き声のようにも感じられた。
すぐだった。その歌は徐々に速度を緩め、途端に途切れる。
銀様がガクンと力なく膝を折り、前方へ倒れた。
俺は慌てて銀様の体を受け止め、銀様の力のない重さを両腕に感じ、
俺は一人で天使を抱きかかえ涙を流した。
epilogue「いつか見上げる空」
今日もまた俺は少し作りすぎた紅茶を飲んで外をみる。
俺の向かいには銀様が座っている。
銀様は喋らない。動かない。笑ってくれない。
あれから3ヶ月が過ぎていた。
「どうしたのよぉ、今日は元気ないわねぇ」
ある日銀様が黙りこくった俺に言った。
「わかった!まさか昨日私が言ったこと気にしてるんでしょぉ?」
銀様が動かなくなってしまう日を想像し、心配されるほど落ち込んでいたらしい。
俺はそうだよ。と短く返事をすると、
「そんなに私が居ないとダメなのね」
銀様が続けて言う。
「私が言い出したことだし…今日は一緒に寝てあげてもいいわぁ」
ただし、へんなことしたら怒るわよ。と付け足した。
「それで…そうやって見られても、落ち着かないんだけど…」
目の前にはこちらに顔を向けて、夜でも光るような赤い目でじっと見つめてくる銀様がいる。
そんなに大きなベッドじゃないので俺は横向きに寝ている。銀様も丁度こちらに体を向けているのだ。
「いいじゃないの。そういえば私貴方の寝顔を見たことが無かったわぁ」
とても甘い匂いがする。
益々笑みを浮かべてこちらを見る銀様を正面から見ると、何故かこちらが恥ずかしくなってきた。
電気を消しているので俺の顔が赤くなっていることを悟られはしないだろうが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
ベッドは窓に面していて、銀様に背を向け、窓の方にゴロンと体を向ける。
「もぅ、ちょっとぐらいいいんじゃないの?」
そう背後から銀様の残念そうな声がかかってくる。
「もしかして照れてるのぉ?」
「ち・・・違うよ!星を、見てるんだ。星をね」
「よくこんな曇っているのに星なんか見えるわねぇ」
ぎゅっと銀様が俺のパジャマを両手で掴んで引っ付いてきた。
銀様の体の温もりを背中に感じた。
心臓の高鳴りの音が銀様にも聞こえてしまうのではないかと思うほどうるさかった。
「銀様…その、これからも俺と一緒に居てくれる?」
そう聞いても銀様からの返事は無かった。
耳を澄ますと静かな銀様の呼吸音が聞こえる。寝てしまったのか。
たたき起こすことなんてできっこないので、俺もそのまま眠ることにする。
寝返りをうつことが出来なかったので翌日は体が痛かった。
「あの時はホントに腰とか痛かったんだよ」
思い出して俺は笑いながら銀様に話しかける。
銀様は依然として目をつぶって静かにそこにいる。
「あはは……は」
無言。
窓から吹き込んできた風が銀様の髪を揺らす。
少し居眠りをしてしまったようだ。
すっかり外は暗くなってしまった。
銀様を鞄に寝かせようと立ち上がろうとしたときだった。
血を連想させるような、それでいて穏やかな、久しぶりに見る色。
銀様の瞳。
目をつぶって座っていた銀様が俺の目の前で、口元にかすかな微笑を浮かべてこちらを観ている。
「貴方の寝顔を見るのは初めてかもね」
銀様が俺の呆気にとられている顔をみて話す。
「貴方が眠っている間にお父様が直してくれたみたいなの、
まったく…何度も私を直してくれるなら私がアリスでいいんじゃないかしら」
また永い時を過ごすことになったわぁ。と続けた。
「銀様、今度は一緒にずっと居てくれる?」
「無理ね」
銀様がゆっくりと椅子から降りて、俺の膝の上に座ってきた。
「絶対にお別れはあるのよ。そうねぇ…貴方が壊れるまで居てあげないこともないわぁ」
イタズラっぽい笑みを浮かべて俺の顔を見上げる銀様をそっと抱きしめた。
「ちょっ、ちょっとぉ…なにするのよぉ」
今思うとこうやって銀様に触れるのは初めてかもしれない。
戸惑った表情を浮かべる銀様も嫌がってはいない様なので、もうちょっとだけ抱きしめていよう。
俺が壊れるのはいつになるのか、想像できないほど永いかもしれない、短いかもしれない。
ただ、今はもうすこしだけ、もうすこしだけこうしていよう。
「ねぇ、見て」
銀様が窓の外を俺に見るように促す。
そこにはいつか見た星空よりも、もっと透明にはっきりと見えるほど星が輝いていた。
でも何故か俺には滲んで見えた。