喪「水銀燈、今日の紅茶はオレンジペコっていうんだけど…どうかな…?」
水「………そうねぇ……まぁまぁねぇ………」
喪「そ、それとこれ良かったら食べてみてく、くれる?」
水「今度はなによ……」
喪「あ、あの…これは…その…なんかお、女の子に今人気のク、クッキーらしいんだ」
水「人間のねぇ……なんだか気が乗らないわねぇ………いらないわ」
喪「そ、そんなこといわないで、ぼ、僕も食べたけどすごく………」
水「………この私に食べかけを食べさせるなんて………何様のつもり?」
喪「ご、ごめん!!そんなつもりは………」
水「………」
喪「ごめん………」
水「………」
喪「………!……水銀燈…」
水「……別に…食べたいからじゃないわ……ただ…」
水「ただ……そんな顔されてるとミーディアムが役に立たないと思っただけよ………」
喪「………水銀燈」
水「……ホントに間抜ねぇ………アナタ一度自分で鏡見たほうがいいわよぅ………」
水銀燈とこうしていると気持ちが軽くなる。
きっと他人から見たら僕が一方的に気を使ってるとしか見えないだろうけど………
でも……水銀燈と話したり、一緒にいるだけで心がどこか満たされる。
限られた時間の間だけだと知っていても、僕はその時間が待ち遠しくて仕方が無い。
水銀燈の仕草を見るたび、言葉を交わすたび、視線が合うたびにそれは満ちていく。
水銀燈の何気ない仕草が僕を安心させ、時に見とれて、いとおしく思う。
その時間の中で決して多いとはいえない水銀燈の言葉……
その言葉に僕の何かをがんばれとも、頭ごなしに否定したりする言葉はない。
そりゃ水銀燈の性格上馬鹿にされたりはするけど……
それは僕の知っている人間の言葉のような否定とは違うもののように思う。
もしかしたら水銀燈は僕の人生なんてこれほども気にしていないのかもしれない。
それでもいい……それでも水銀燈との時間は自分でも驚くほど居心地がよく感じる。
水銀燈の言葉はいつも僕の心の中に息吹を吹き込んでくれる。
あれだけ水銀燈と会う前は卑屈で無気力だった自分が少しづつ変わってきている。
水銀燈のためでもあるけれど、今日のようについ最近までだったら絶対に目すら向けなかった
お菓子屋に入ったり、おしゃれな女性だらけの紅茶専門店に入ったり……
言葉では上手く説明できないけれど、水銀燈はただ僕の目の前にいるだけで僕のいつのまにか
凝り固まった「ココロ」を溶かしてくれているような気がする………
時々思う……もしかしたら水銀燈と一緒にいて少しづつ変わってきた自分が、
実は本当の自分なのではないかと……
2月も半ばで今日は夜になっても窓を開けていても温かい。
少し湿気を帯びた風が水銀燈の髪を撫でる………
銀色の糸が揺れる。
安っぽい言葉かも知れないけれど僕の目に映る水銀燈は天使のように見えた。
ふとパソコンのディスプレイが目にはいる。
そこには窓辺で紅茶のカップを優雅に持つ水銀燈の姿が小さく映っている。
そんなディスプレイ越しの水銀燈の姿を眺めていると、
水銀燈がずっと昔からそこにいたような錯覚に陥りそうになる。
そんなわけはないのに……
けれど水銀燈と一緒にいる時のこの気持ちに浸っているとそんな気がしてくるのだ………
…それはずっと昔にいた親友のような、それでいでどこかくすぐったい気持ち………
水「………なに」
喪「………う、ううん……なんでもないよ………」
心が少しだけ痛んだ……ずっと昔に感じたような痛みが……
―――僕はこの日初めて水銀燈に『ウソ』を言った。
水銀燈といる時間で僕は一度も水銀燈にウソを言ったことがない。
今までの誰にだって両親にだってウソをつき続けた僕なのに………
水銀燈にはウソをつけない……いやウソをつく必要すらない………
でも僕は………今水銀燈にウソを初めてついた。
僕という人間を構築する情報は半分がウソできている。
他人が僕を見る眼、それが僕という人間を構築する情報になっている。
ウソをこんなに罪悪感のように感じたのはいつぶりだろう………
いつもは、外では平気でウソをつき続けているのに………
ウソなんて口からいくらでも吐き続けてきたのに……
ウソなんてもっと簡単なことのはずなのに………
ウソをつくことは僕にとって簡単だ
会社の昼休みに一人離れた公園のベンチでひっそりと昼食を取るような
人付き合いがいかにも上手くなさそうな寂しい人間でも。
家の外から祭りの太鼓の音やお囃子の音色が聞こえるなか、ネットでどこの誰ともわからない人間を
中傷するようなことしかできない臆病者でも。
すぐに誰にでも頭を下げるような小心者でも。
小心者で臆病で寂しい人間………
こんな僕だからウソでしか自分をこの社会で生かせる術を見つけられなかったのかもしれない……
生きるためにいくつウソをついてきただろうか?
どれほどの人間を騙してきただろうか?
親?兄弟?親戚?同僚?上司?知り合い?ネットの中?
数え切れないほどの人にウソを言った。
大学で友達がたくさんできた。
サークルでバイトで仲良くやっている。
彼女ができた。
そんな些細なウソが始まりだった気がする。
ばれそうになるたびにまたウソを重ねる。
そうして学生時代を過ごし、
やりたい事も見つからないまま何社も回っては断られ
ようやく雇ってもらった会社をまるで初めからその仕事がやりたかったように話した。
仕事についてからも僕はウソをつくことを止めることはなかったし、できなかった。
僕はどこにでもいるような車の営業マンだ。
入社時の面接の時も家の車は年中ほこりを被っているのに、
「車の洗浄が週末の楽しみです」と言ったり
自動車学校で一度やったきりの
「タイヤ交換とかメンテナンスが好きです」と言ったり
本で斜め読みしただけの車のことをさも詳しいように話した。
それでも仕事のためだとまた自分にウソをつく
ウソを肯定させるためにそれを会社のせいするときもある。
会社には毎月の販売ノルマが決まっており、それが達成できなければ罵声や灰皿が飛んでくる。
高校卒業して入社した僕より年下だけどキャリアがある同僚に馬鹿にされる。
そんな光景を日ごろのストレス発散のために面白がっている女子社員……
だから……必死にウソをついてでも車を売る……
売らなければ僕は……会社にはいられない。
頭の中ではずっとこの仕事をやめてもいいと思ってもウソの重みがそれを許さない……
自分でも興味すら湧かない車のことをさもお買い得のように朝から晩まで喋り続ける。
「本当にこの車はお買い得でして」
その家にある車の方が僕の売ろうとする車よりも遥かにいい車のように思えても
「この車は本当いいですよ。他のお客さんも買って本当に良かったって方が大勢……」
契約が決まればうれしくもないのに笑顔を作り
「本当にありがとうございます!!」
ノルマが達成できて上司に誉められてもまた同じような笑顔を作り
「本当にうれしいです。ありがとうございます」
ノルマが達成できずに皆の前で怒鳴られてなじられても
「本当にすいません!!本当にすいません!!」
客のクレームがくれば
「本当に申し訳ありません!!この件は私達の………」
何が「本当」で何が「ウソ」なのかわからなくなる……
ただ気がつけば僕は感情も表情さえもウソになっていた。
時々街角でばったり会う知り合いだった大学の奴にはいつも仕事は順調だという。
………でもそうしていると僕の周りには顔は知っていても、近いと呼べる人間は減っていった。
気づいた時にはもう一人ぼっちだった。
そんな時現れた水銀燈…初めて出会ったときも騙せる気がした。
気に入られたいためのウソをなんでもいえると思っていた。
水銀燈を騙して手に入れることも可能な気がした。
でも……水銀燈を前にするとウソが出なかった………
吐き出したウソもすぐに必死に訂正する自分がいた。
水「………なぜ泣いているの」
頬にはいつのまにか大粒の涙が流れていた。
涙が止まらなかった。
会社では悲しいなんて思わなかったことが水銀燈の前では涙として現れた。
――――僕は会社でのことを水銀燈に聞かれるまでもなく話した。
僕は水銀燈と会ってからウソは言いたくなくなった。
例え誰かに「ウソつき」と言われようともそれでもウソは言いたくなかった。
それで僕の全てのものが崩れ去ってもそれでも……水銀燈の姿を思い浮かべるたびに
僕はウソをもう誰かに言いたくはなかった。
――――僕は全てを話した。
――――会社でもう僕の居場所がないこと……解雇に近い警告を受けていること
――――たった一人ぼっちだということ
水銀燈は赤子のように泣き止まない僕の言葉を表情を変えずに黙って聞いていた。
水銀燈の眼は無表情のようであってもしっかりと僕の芯を捕らえていた。
………どれくらいそうしていただろうか?
水銀燈は空になったカップを置くと夜風に身を委ねながら僕をいつものように見下ろしている。
喪「水銀燈……ごめん………こんなこと話して……こんなの僕自身の問題だよね………」
水「………」
喪「本当にごめんね水銀燈………せっかく水銀燈が来てくれたのに」
水「………」
水銀燈は何も答えてはくれなかった。
全てを知っていたかのように表情一つ変えずに僕を見下ろし続けた。
………今度こそ本当に愛想をつかされたような気がした。
こんな弱い人間は水銀燈は嫌いな気がしたから。
そう思うとまた涙があふれそうになる。
水銀燈に捨てられた惨めさよりもこんなことを話したことの後悔が心を締め付ける。
………水銀燈は何も言わずに一瞥だけすると空に舞い上がっていく。
思わず膝をついたままで手を伸ばそうとするが
その手の指の間に小さくなる水銀燈の姿しかとらえることができなかった。
僕はその場に座り込んだきり動かなかった。
何も頭の中には浮かんでこなかった。
これからのことも水銀燈のことも……
丸まった小さな背中にかすかな重みを感じる………
かすかな重みは僕の淀んだ何かを浄化していくようだった。
それがなんなのか僕は確かめることはしなかった。
ただそのかすかな重みはまるで陽だまりにいるようで心地がよかった。
目をつぶったまま僕はそのかすかな重みをそっと体で支えていた。
喪「………」
水「………気づいているのでしょ」
喪「………うん」
水「………慰めてほしい?」
喪「………いいよ……もう平気だから」
意識がいつも通りに戻ると僕の背中に水銀燈が片手で手のひらを当てているのがわかった。
喪「………もう……愛想つかされたかと思った」
水「………そうね」
喪「………そうだよね……急に泣き出すなんて……」
水「………ええ」
喪「………」
水「………」
喪「………どうしてここへ?」
水「………何度も…言ってることよ………」
喪「水銀燈の勝手だよね………」
水「………」
喪「………」
しばらくまた僕と水銀燈はそのままでいた。
お互い気まずいわけじゃなかったと思う。
これが僕と水銀燈の丁度いい距離のように思えた。
水「………アリスになるには戦い、勝利した者だけがなれるわ」
喪「………そうだったね」
水「アリスになったものは理想の完全なものになれる………」
喪「………そう…だね……」
水「………でもアナタは………それ以外にも方法があると言ったわ」
喪「………うん…それは今でも変わらないよ………」
水「………」
喪「………」
水「………人間は愚かなくせにどうして争わずに仕事なんかで富を得ようとするのかしらね」
喪「………争ってるよ……仕事は…いつもどこかで誰かが損をして…その裏で誰かが得をしてる」
水「………なら…そんなまどろっこしい事止めればいいのにね……」
喪「………それはできないよ……仕事はお金のためだけじゃないんだから………」
水「………なら………なんのため?」
喪「………人間として……たぶん成長するためかな………」
水「………人間として成長して……人間は何を目指すの………」
喪「………わからない……たぶん理想の自分になるためかな……」
水「………理想の自分……アナタの理想ってなに………」
喪「………『本当の自分』……かな……」
水「………『本当の自分』………それは目指すべき価値があるの………」
喪「………あると思う……きっと」
水「………そう」
喪「………」
水「仕事は争い……そして仕事の先には『本当の自分』………これがアナタの戦い……」
喪「………そうかもしれない」
水「………」
喪「………」
水「アナタはいったわ……アリスになるには他の方法もあると………」
喪「……水銀燈………?」
水「なら……アナタが示しなさい……他の方法を………」
喪「………他の方法………」
水「………」
喪「………」
水「………」
喪「………そうか……他の方法か………そっか……」
その瞬間水銀燈の手が僕の背中から離れる。
でもそのぬくもりだけは目に見えない糸でつながっているような気がした。
喪「ありがとう………水銀燈………」
水「………なに……さっきまで泣いていたのに……そんな顔して………」
喪「ううん……なんでもないよ」
水「ホントお間抜な人間………ホントに訳がわからないわぁ………」
喪「……ふふっ、そうだねわけがわからないよね」
水「さっきから何一人で納得しているのかしらぁ………」
喪「………水銀燈………ありがとう………僕もがんばるから………」
水「なにぶつぶつ言ってるの……まぁ…いいけど………」
少しだけ冷えてきた部屋に僕はもう一度紅茶を入れて運ぶ。
水銀燈は相変わらずのリアクションだけどそれが僕にはうれしかった。
出会いに運命なんてウソ臭いものは信じはしない。
……けれど水銀燈との出会いは運命だと本当に信じてもいいと思った。
水銀燈が帰った後僕は一人机に向かった……封筒に「退職願」と書いて………
桜が散って季節はいつの間にか5月に入っていた。
最近はめっきり温かくなったせいもあって、窓を開けていてくらいが丁度いい温度になっていた。
職を変えて早3ヶ月…窓の外を眺めているとあっという間な出来事だったように思えた。
営業という接客商売から今は運送会社の倉庫での肉体労働に変わった。
給料も前よりも少し…いやかなり安い…でも後悔はしていない。
…それは今もこうして隣に水銀燈がいるからだと思う。
僕の周りは色々と変わったけれど……水銀燈は相変わらずな感じでココにいる。
5月に入り世間は僕も含めて例外なくゴールデンウィークをむかえた。
そのためか家の外からは夜だというのににぎやかなお祭りの音色が聞こえる。
お神輿を担ぐ活気に満ちた声、どこか懐かしいようなお囃子の音色。
ほんの1年も前だったらうるさいとくらいにしか思えなかった音が、
今はこうして隣に水銀燈がいるだけで特別な音色に聞こえる………
遠くからお祭りの音色が聞こえる中で、横目で水銀燈を見る。
水銀燈は僕と同じようにティーカップを片手に窓の外をいつもように眺めている。
………やっぱり水銀燈は綺麗だと思った。
暖かな風が吹くたびに優雅に揺れる銀髪の髪が……
透き通るような曇り一つもない白い肌が……
ティーカップに触れる唇が……
そしてどこか厳しいながらも魅力に満ちた水銀燈の眼が……
………あと……黒いアンティークドレスから見える豊かな胸の膨らみが………
水「……なにか用かしらぁ………言いたい事でもある………」
喪「い、いや!大きいなんて別に思ってないよ!ち、違う!!僕は……な、なんでもないよ!!」
水「……急に慌てて……ホントにお馬鹿な人間………」
……いかん、いかん…僕はどこを見てるんだ………
水銀燈をそ、そんな…いかがわしい目つきで見るなんて………
…でも……僕は水銀燈との生活に慣れたせいか時折水銀燈に妙な妄想を抱いてしまう………
今だってこうしてただ隣にいるだけなのに……どこか恋人にでもなったような錯覚に陥る……
あくまで僕と水銀燈は契約者と主……それが僕らの関係のはずなんだけど……
外からお祭りの音色が平和すぎるくらい平和を奏でているせいだろうか?
僕はつい、休日のカップルのような感じがしてしまった。
………いや…それだけ僕が水銀燈に惹かれているのだろう。
あり得ない話だけれど、僕の今年の目標は水銀燈と手を繋ぐ事だったりする……
…多分…いや絶対無理だろうけど………
……でも…世の中にはもしかしたらってことも……無きにしも非ずで………
水「……なにをぼんやりとしているのかしらぁ………」
喪「えっ…!?は、はひ!?す、水銀燈!?」
水「……いい度胸よねぇ……この私を無視するなんてねぇ………」
喪「いっ!?いや!これはそうじゃなくて………」
水「……そういえば……最近チカラ使ってなかったわよねぇ……」
水「そうだ……ヒマだから誰かのローザミスティカでも貰いに行こうかしらねぇ……」
喪「え…ちょ!ちょっとそれは……!!」
水「なに……口答えする気かしらぁ………」
喪「い、いやそういうわけでは………」
水「……だったら早く紅茶のおかわりを入れなさぁい………」
喪「は、はい!た、ただいま!!」
……世の中には無いもの無いんだな。
夜がふけて家の外からお祭りの音色が消えると、水銀燈はいつものように月の光に祝福されたように
美しい姿を僕のまぶたに残して飛び立っていった……
一人部屋にいつものように取り残された僕は、いつものように少しだけ寂しさがこみ上げた。
……でも明日、あさっても月が僕の部屋を照らすように水銀燈は来てくれると思うと、
その気持ちも和らいでいく。
……でもやっぱりもう少し…そばにいて欲しいというのが女々しいながらも本音だったりする。
――――「薔薇の首輪つなげて♪銀の鎖くわえて♪今宵一人朽ちる〜アナタが憎らしい♪」
部屋のどこかから急に懐かしい音楽が流れる。
数秒の間頭の中では「?」でいっぱいだったがすぐに自分の携帯の着信音だと気がついた。
……考えてみれば自分の携帯にかかってくるなんて滅多にないことだと気がついた。
めんどくさそうに二つ折りの携帯を開くとディスプレイには知らない番号が表示されていた。
……携帯の悪徳業者も休日だというのにご苦労なことだ。
……それとも休日に浮かれて操作ミスした奴からの電話だろうか?
……どちらにせよここは……無視するに限る………
……でも滅多にかかってこない電話だからな……たまにはとってみるか……
……内心は久しぶりに鳴った自分の携帯がうれしかったりもした……情けない話だけど……
喪「はい…もしもし……」
?「あ、あの……お、お疲れさまです……」
…だれだろう?女の人の声だけど……母親じゃないことだけは確かだけど…
またも僕の頭の中にはさっきよりも多くの「?」でいっぱいになった。
?「あの……急にこんな時間にすいません……有栖川です……」
喪「(アリスガワ…?有栖川……ああっ!!家の倉庫の事務所で働いてる!!)」
有「あの……もしもし……?」
喪「あ…ああ…ど、どうしたの………?」
有「あの……突然なんですけど…明日の夜お暇ですか……?」
喪「………はい?」
自分の耳を疑った……第一なぜあの有栖川さんが俺みたいな人間に電話を?
というか番号は?
それに……明日の夜ヒマって………?
有「突然で迷惑だと思うのですが……よかったら明日の夜…夕食を外で食べませんか…?」
……なんだこの展開は?
このいかにもデートのようなお誘いのような展開は?
……この人番号間違えてはいないだろうか?
――――小1時間ほど「有栖川さん」と話して事態がようやく飲み込むことができた。
この電話はデートのお誘いなどというものではないこと。
ただ単に「お礼」がしたかっただけだということ。
……冷静考えれば当たり前の話で…男性社員からの注目の的の有栖川さんが僕ごときをそんな対象で見るはずもないわけで………
話を戻すと、なんの「お礼」かと言うと、ついこの連休に入る前のことだ。
休み明けの倉庫は入ってくる物量が多いらしく、事務所の人間は大仕事だった。
僕の普段の仕事は事務所とは関係ない仕事なためそんなことは関係なかったのだが、
休み明けに出荷される荷物の伝票を渡された時に違和感を感じた。
届け先のリストに普段では絶対無いような商品ばかりが記載されていた。
それで僕は事務所に訪れそのことを話した所、有栖川さんのミスだった。
……で、そのことで会社に損害出す前に事なきを得たということで有栖川さんは僕に感謝していると。
僕はそのお礼を断った。
そこまでされる覚えが無いとかいう男らしい発想ではない。
ただ単に苦手なのだ、休日にどこかに食事を食べに行く事などが。
まして女性と二人でなんてとんでもない。
……絶対挙動不審になって後々会社での笑いの種になるに違いない。
有栖川さんがそのことを言わなくても、絶対にその後の関係が事務的にもギクシャクするのは
明白だった。それだけは避けたかった。
……それに水銀燈と会う時間が減るのも嫌だった。
……だけど僕は次の日の朝には自分の車を洗っていた。
断りきれずについ…お誘いを受けてしまった……
しかも調子に乗って車でむかえに行くとまで約束してしまった……
自分の馬鹿さ加減に嫌悪感を抱きながらも、内心は少しだけ……いやだいぶうれしかったりした。
約束の時間になると僕は久方ぶりにスーツを着た。
ついこの間まで着ていたはずなのにどこか初めてスーツを着たような気分になった。
水「あらあら……おめかししてどこに行くのかしらぁ……」
気がつくと鏡の後ろに水銀燈がイタズラっぽく微笑んで立っていた。
喪「え…い、いや……ちょっと用事があって……会社の人と食事なんだ……」
水「そう……私が来たのにねぇ……まぁいいわ……とりあえず………」
……心がチリチリと痛んだ気がした。
別にやましい理由などないが……どこか水銀燈に対してよそよそしい自分がいた。
水「……また無視する気かしらぁ………ホントいい度胸してるわねぇ……」
喪「ご、ごめん水銀燈!!時間がないんだ!!ごめん!!」
水「な、なに……ま、まちなさ………」
…最悪だった。
別に今日のことを話したって構わないのに………
なのに僕は一体……
どこか晴れない気持ちで車を走らせていたが、
有栖川さんの家の近くのコンビニまで迎えにいくとその気持ちは一気になりを潜めてしまった。
有栖川さんは優しく笑顔で手を振ってきた。
……正直この上ない喜びがこみ上げてきた。
車を「お礼」のためのレストランに走らせる間も喜びは尽きなかった。
…考えてみれば助手席に母親以外の女性が乗っているのだ………
しかも……社内で可愛いと評判の有栖川さんが………実際可愛いわけでもあるのだが……
食事中も話題がなぜか途切れることなく順調だった。
僕の前では笑顔で食事を取る有栖川さんがいる……
それは遠い昔に思い描いて光景だった。
ずっと叶わず、叶う事などないと思っていた光景。
でも少しずつ心に違和感が生まれていた。
話も弾んで楽しいはずなのにその違和感は心の中で広がる一方だった。
いつの間にか美味しいと思っていた料理も何を食べているのかさえわからなくなっていた…
次第に僕の顔から笑顔の数が減っていった。
それでも僕は有栖川さんに迷惑をかけないように笑い続けた。
……でも限界だった
食事の後に紅茶が運ばれてくると……僕は…僕の心は水銀燈のことでいっぱいになった。
……ここの紅茶…水銀燈にあげたら…喜ぶかな。
そんな僕の失礼にも近いあからさまな態度の変化に有栖川さんがおずおずと口を開く。
有「あの……やっぱり迷惑でした?急に呼び出されて……」
喪「……有栖川さんは悪くないです……ただ…僕は女性とこうして2人きりなのが初めてで……」
有栖川さんの表情にふっと険しいものが走る。
その目は見飽きたくらいに覚えるあるものだった。
喪「すいません……ちゃんと話すべきでしたよね……ごめんなさい………」
有「……い、いえ……中には……そ、そういう人もいますから………」
…全てが最悪な結末に終わった。
そのあと、僕と有栖川さんが言葉を交わすことはなかった。
…仕方の無い結果だ。
誤解されても仕方が無い。
…全ては僕が招いた軽はずみな行動の結果なのだから。
お店から出ると僕はタクシー呼んだ。
それでも気を使ってくれる有栖川さんを強引乗せると、タクシー代を手渡して見送った。
見上げる続ける月がとても綺麗だった。
喪「水銀燈ごめん!!昨日は本当にごめん!!」
水「なによいきなり……来た早々うるさいわよ………」
喪「じ、実は昨日…僕は……か、会社の女の子と………」
水「……知ってるわよ」
喪「え……なんで………」
水「……あんな間抜な顔で空を見上げてたら……嫌でもわかったわよ………」
喪「水銀燈もしかして…僕のことを………」
水「ばっかじゃないの……そんなわけないでしょう………偶然よ………」
喪「……水銀橙」
水「それより……私が来たのよぅ……お茶ぐらい出しなさい………」
喪「うん!ちょっと待ってて!!」
キッチンに駆け込むと小さな紙袋から紅茶の缶を取り出す。
…昨日有栖川さんを送った後にもう一度お店に入って買った紅茶の葉だ。
水「……まあまあねぇ………でも…悪くないわねぇ………」
喪「…えっ!ホント水銀燈!?おいしい!?」
水「……うるさいわよ……私が紅茶を飲んでるときは黙りなさい」
喪「あ、ああ…うん……そうだね………」
遠い昔に思い描いていた理想の光景。
それは昔に思っていただけの憧れ。
でも現実はここにある。
僕の目の前には水銀燈という現実がある。
決して望む答えばかりではないけれど、でもそれでも幸せだったりする。
月は僕が見上げる限りそこにありつづける。
見えない日もあるけれど、月は見上げるかぎりいつだって輝いている………